うちの母は、ケセラセラ♪

夢の中で・・・


2年前に糖尿を煩ってから、食べる事が大好きだった母が、
反対に摂食障害になって行きました。


食べたい気持ちだけはあっても、食べられない、飲めない、
そして、極度の低蛋白、脱水で、昨年末に意識不明に
なったのです。



胆石の手術をしてから、時々熱を出したりはしていました。



糖尿になってからは、少しずつ食が細っていましたが、
波があって、それでもそれなりに好きなものは
食べていたと思っていました。



一番好きだったお寿司だと、結構食べたんです。


数年前に、小田原のお寿司屋さんで、34カン食べたと言う
偉大なる実績を持っている母。



そんなですから、すぐに覚えられて、
いつも行く大好きな「おけい寿司」では、
母だけいつも特別扱いでした



現在、八重洲のご主人(私達は、おにいちゃんと
呼んでいるのですが)は、母だけに握ってくれる
貴重なネタがあったりしました。



なので、母は、お寿司屋さんに行くと、あまり食欲がない
時には辛いのです。
たくさん食べるのが母だと思われていると、母自信が
そう思っているから、
少しでやめる訳には行かなくなってしまう。



そう言う時は、お調子に乗って頑張って食べてしまうのです。
そんな風で、食べる時と食べない時の波があったのは、
わかっていました。




病院は通って見てもらっていたし、こんな事になるなんて、
気づいてあげられなかった事を悔やみます。



夏ぐらいから、すごく痩せた事を心配して、10月に入院しましたが、
検査後、特に悪いところはないと、治療もなく退院しました。



退院後も体調がすぐれず、先生に相談に行ったばかりの出来事でした。



気持ちだけは、いつも元気な母ですが、
体がついていかなかったのです。
弱音もはかず、頑張り過ぎて、無理しすぎて
いたのです。



その後、意識を取り戻した母は、生まれ変わったと言って、
これからまた頑張ると言ったんです。



最後まで、がんばり続け、辛い中でも冗談を飛ばして、
駄洒落を言っていた母。



ベッドの中でも、たくさんの名言を残してくれました。
すぐにでも、母語録を載せたいと言う衝動に
かられるほど。



息を引き取る最後まで、頭はクリアで、
すべてを理解していた母。



私達が生きていて欲しいと願っているのを知った母は、
どんなに自分の体が辛くても、私達の願いに答えようと
して、がんばってくれました。



痩せてしまった骨の痛みに苦しみながらも、
すべてを理解していて、自分の事より、私の為、家族や
従姉妹達みんなの事、それぞれの事を心配していたんです。



姪や甥の一人一人の名前を呼んで、
それぞれにメッセージを残して行きました。


こんな言い方はいけないのかもしれませんが、
ボケてしまえば楽だったかもしれないのに、と
思わずにはいられないほどでした。


辛い思いをさせてしまった・・・




昨年、糖尿の数値がよくならない事を気にしていました。
本人が気にしていると言うのに・・・、
それなのに、私が過敏に、うるさかった事・・・。
後悔してもしても、しきれません。


思い出すと胸が潰れる思いです。




病院にいた12月、私も母の病室にずっと泊まっていました。
そして、うつらうつらした時に夢を見たんです。


夢の中では、母は元気に台所に立って
せっせと料理をしていました。


私が、「お母さん、大丈夫なの?」と聞くと、
母は笑って、「大丈夫だよ。」 と答えました。


私は、何度も「本当に大丈夫なの?」と聞いても、
母は、「大丈夫」と笑っているだけでした。


私が、「なぁんだ、じゃあれは何だったんだろう・・・
     夢だったんだね。
     でも、よかったぁ・・・ほんとによかった、よかったね。」

と夢の中で泣いて目が覚めました。



目が覚めて、病院のベッドにいる母を見て、
夢じゃない現実なんだと知らされました。


ベッドを起こして、座っていた母に、私は思わず抱きついて、
泣いてしまいました。


「お母さん、ごめんね。 私がいけなかったんだよね。
 お母さんが糖尿になった時に、あれ食べちゃだめ、
 これ食べちゃだめって言ったから、
 それでお母さん、食べられなくなっちゃったんだよね。ごめんね・・」
と言って泣いてしまうと、


母は、何も言わずに首を振って、そっと私に抱きつき、
静かに涙を流しました。


それを思い出すと、胸が苦しくなります。
毎朝、母に謝っても謝っても私の罪はぬぐえないでしょう。



結局、病院での治療はなく、食べる、飲む事を前提に
1月末から、在宅になりました。


ほぼ、毎日来て下さった訪問の看護士さんと往診の先生に
助けられ、また、母のがんばりと、母語録に笑わされて
の私の看護の日々となりました。



母は、最後の最後まで、気持ちがはっきりしていました。




「私の病気はなあに?」旦那に聞いたそうです。
母は、何らかの病気で、食べれない、飲めないのだと
思っていたようでした。


旦那は、「お母さんの病気はね、食べて、飲めば治るんだよ。」


母 「そうかぁ・・・。食べて、飲めばいいんだね。
   がんばるよ。」


そう言ったそうです。



今回、1月末から2月にかけて2週間、急遽、カイとマミィが
帰って来て、母の側にずっといてくれたのです。


週末になると従兄弟達も来てくれて、母の部屋で
みんなで宴会、そしてカラオケ大会。


カイは、「ぼくらはみんな生きている〜」歌いたくて
マイクを離しません。
母もカイと一緒に歌っていました。



カイ達が帰る日、
マミィは、母の手を握りしめて離す事が出来ませんでした。
「お母さん、また来るからね。
 早くよくなってね。」



母は、静かに言いました。
「お前も体に気を付けて。 
 カイの手を離すんじゃないよ。」



マミィは涙でうなずくだけ。
行かなくてはいけない時間が来ているのに、マミィは
母の手を握ったまま、ベッドから離れる事が出来ませんでした。



私が、「もう行かなくっちゃ。 時間だよ。」と言っても
マミィは泣いて、側を離れません。
母は、最後の別れを惜しむように、マミィの顔をじっと見ながら、
静かにゆっくりと、マミィに何かを話し続けていました。


それが、マミィにとって最後のお別れになってしまいました。



その後、母の具合が思わしくない事もあって、
再度、帰国準備をしていた矢先に、マミィが帰って来るのを
待たずに母は行ってしまったのです。


別れる最後に、いっぱいいっぱい話しをしたね。


きっと、もう会えないと母は思ったのでしょう。



そして、カイとマミィが母の訃報を聞いて再び帰って来たのが、
あの地震の日。
お通夜の前日でした。






とぼけた格好をするのは十八番。
箱根のホテルでランチの時、母は大好きなカレーを
頼みました。




こちらは、その34カンの記録を残した、
小田原のお寿司屋さん「時よし」さんです。




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